高村薫『地を這う虫』

警察小説やスパイ小説など初期作品は男っぽくハードな作風で知られる高村薫の短編集。単行本では5編が収録されているが、文庫化にあたって4編となりすべて改稿されているので作品の読後感は異なる。文庫本の完成度も捨てがたいが、改稿前の単行本の方が個人的には好み。

地を這う虫 (文春文庫)

地を這う虫 (文春文庫)

地を這う虫

地を這う虫

〈単行本〉8点〈文庫〉7点

文庫と単行本の違いだが一言でいうとエンターテインメントとしてのわかりやすさ(単行本)と小説表現の完成度(文庫)の差ではないかと思う。
改稿前後を比較した研究本も出ているようなので仔細に違いをあげることはしないが、全般の傾向をまとめると以下のようになる

  • 登場人物が減っている(『父の来た道』、『地を這う虫』)ないしは主人公と登場人物の会話が省かれている、主人公の一人称的な視点がやや強調され警察「組織」から追い出された人物の孤独感を増している
  • 「事件」の真相が全部もしくは一部変更されている(『地を這う虫』、『愁訴の花』)
  • 主人公の感情を表現するシーン、あるいはドラマティックな描写の削除(『巡り逢う人びと』、『父が来た道』)

2点目だが、新たな事実の方が若干リアリティを増している。この他に『父の来た道』ではラストの父親の出所シーンが不要と判断されたのかバッサリと削っている(これは成功だと思う)。
3点目については、『父が来た道』を例にとると主人公が雇い主である議員に対する憎しみを抱く描写、自らの「メモ」の扱いにこだわり警察に電話をするシーンなどがカットされており、結果として主人公の懊悩が父親への憐憫なのか自身の過去への悔恨なのか、若干わかりにくくなっているように感じる。また『巡り逢う人びと』では主人公が警察時代から使っていた黒い革鞄を衝動的に投げ捨てるシーンがあるが、文庫ではかなり控えめな表現となっている。このあたりは好みの問題か。
単行本の最後を飾る『去りゆく日に』は定年退職間際の刑事が、己の運に恵まれない人生を振り返りつつ最後に手柄を挙げる作品で、本作中では最もエンターテイメント的なカタルシスを感じる作品となっているが文庫には収録されていない。

  • 愁訴の花

警察を定年退職して1年、再就職先の警備会社で物憂げな日々を過ごす主人公のもとに妻を殺した罪で服役した元同僚から突然連絡がくる。彼の元上司は今まさに死の床にあるが、それをきっかけに6年前の事件の真相を巡る。
文庫の結末は劇的な効果を与えていると思う。

  • 地を這う虫

とある事情で警察を依願退職した主人公。別居中の家族を養うため昼は倉庫、夜は警備員を務め淡々と規則的な生活を送る中、通勤途上の住宅地で奇妙な事件が起こる。
主人公はいわゆる「メモ魔」で、キャラクター的なおもしろさでは本作一番だと思うし単行本の管理人の婆さんとのやりとりもどことなくユーモラスである。

  • 父の来た道

国会議員の後援会長であった父親が選挙違反で実刑を受けたのを機に警察を辞めた主人公。鬱屈としたものを抱えつつ議員の運転手を務め数年、父の出所が近づく。
結末は余韻のある文庫版が好きだが、途中の描写は単行本だなあ。

  • 巡り逢う人びと

消費者金融の社員になった元刑事の主人公。借金の取立ての帰りに偶然出会ったのは元同級生の男だったが。
途中は微妙に異なるが結末の元同級生のセリフが胸を打つのは同じ。

  • 去りゆく日に(文庫未収録作品)

37年間務めた警察を定年退職する刑事の最後の一日の出来事を描く。
これがどうしても一番になるなあ。

全体的な共通点は、警察組織を去った男たちがそれぞれ悩みつつも矜持を保ちつつ生きていく点にあるが、統一感の点では『去りゆく日』は、主人公が退職間際であるが現職刑事である設定や、最後の妻とのやりとりの何ともいえない清清しさが他の作品から浮き上がっている感はある。